夕食を救う、二分のパンソース
フライパンに焦げついた残りかすは、すでにソースの半分である。残り半分は、二分のデグレーズが作る——並みの肉と記憶に残る肉の差は、そこにある。
熱したフライパンから焼き上がった鶏肉やステーキを取り出すとき、人は夕食のうちの良いほうの半分を鍋に置き去りにしている。鉄やステンレスに溶接されたように張りついた、黒く粘ついた、ほとんど焦げかけの斑点——フランス料理人がフォン(fond)、つまり「底」あるいは「土台」と呼ぶもの——は、こすり落とすべき残りかすではない。固体の形をとった、凝縮された風味そのものである。技術的に言えば、フォンとはメイラード反応の生成物の層が、カラメル化した肉汁の薄い膜と一緒に、焼きの最後の数秒で鉄板に焼きついたものだ。メイラード反応の解説で扱った、あの褐変反応の連鎖を、粘性のある終点まで進めたものに他ならない。これを水につけてシンクに置くというのは、コンロの上で一番高価な材料を捨てるに等しい。これをソースに変えるのに、およそ二分しかかからない。
この技法にはフランス古典料理での名前がある。デグラセ(déglacer)——文字通り「氷を解く」——と呼ばれる動作で、毎回まったく同じように働く。タンパク質を鍋から出して休ませる。フライパンは中火にかけたまま。冷たい液体をひと振り、熱いフォンに当てる。温度差で焼きついた表面が割れ、木べらやヘラでこそげ落ちる。液体は同時に二つの仕事をする。熱で溶接されたものを溶かしながら、自身がソースの本体になる。何の液体を使うかは好みの問題が大きいが、それぞれに固有の化学がある。ワインは——赤でも白でも、飲める品質のものなら何でも——酸とアルコールを持ち込む。酸は肉のうま味の重さを切り、アルコールは揮発性の香り成分を鼻まで運び上げる。出汁やストックはうま味と水を加え、肉の味を別方向に逸らさずに深める。何もなければ、ただの水でもいい。水自体に個性はないが、それでもフォンは溶け、煮詰めるべき何かが得られる。古典的な分量はフライパン一杯のタンパク質に対しておよそ百ミリリットル前後だが、本当に意味のある量は、底を覆ってこそげるのに足りるだけ、というそれだけである。
フォンが溶け、鍋が薄いコーヒーくらいの色になったら、煮詰める。強めの沸騰にして、量がおよそ半分になるまで、あるいはヘラの背を引いたとき液が流れ落ちずに薄くまとわりつくところまで煮詰める。家庭料理でいちばん飛ばされやすいのがこの工程であり、水っぽい肉汁とソースを分けるのも、まさにこの工程である。煮詰めとは魔法のように風味を「強める」操作ではない。単に水を飛ばしているだけだ。同じ数の風味分子が、より小さな体積の中に残る。煮詰めたソース大さじ一杯の中には、煮詰める前の半カップ分よりも多くのメイラード化合物、多くのうま味、多くの香気成分が、舌の同じ面積に対して詰まっている。水が抜けるにつれてソースはわずかにとろみを帯びるが、本当のとろみは次の工程で生まれる。
火を止める。冷たい無塩バターを大さじ一、二杯、角切りにして落とす。フライパンを揺するか、軽く泡立て器で混ぜ、煮詰めた液にバターが溶け込んで、ソースがつやを持ち、わずかに粘度を帯びるまで動かす。フランス料理人がモンテ・オ・ブール(monter au beurre)——直訳すれば「バターで仕立てる」——と呼ぶ仕上げである。家庭料理のソースとレストランのソースを分けるのは、しばしばこの小さな技法ひとつだ。仕組みは乳化である。冷たいバターを火を止めた状態で加えると、脂肪がゆっくり放出されるため、水と脂肪の境界が壊れずに安定する。ソースは絹のような口当たりになり、わずかに濁り、見た目にも明らかにとろりとする。煮立ったフライパンにバターを落とせば、ただ溶けて表面に油として浮くだけで、効果は完全に失われる。火から外して、ゆっくりと。これだけがルールである。同じ瞬間に手でちぎった生のハーブを加えてもよい——鶏にはタラゴン、ステーキにはタイム、たいていのものにはパセリ——余熱が揮発性の精油を引き出し、ハーブを煮すぎて鈍らせることもない。
これにどれほど意味があるかについては、いくつかの見方がある。フランス古典のソース作りは、パンソースを土台として扱う。料理学校の最初の週で教えられ、五大母ソースもすべてこの論理を大きなスケールに延長したものだ。一方、現代の家庭料理、とりわけ米国の家庭料理は、これをほぼ省いてしまった。フライパンはシンクへ、肉は皿へ。市販のソースかレモンの一絞りが、本来なら二分のデグレーズがもっと上手にこなしたはずの仕事を引き受けている。私の見方はこうである。パンソースのない肉は、未完成のままだ。タンパク質とフォンは、ひとつの出来事のふたつの半分であり、これを切り離すのは、パンを皮なしで出すのに似ている。フライパンは「次にこうしろ」と、焼きついた茶色いかすという言語で語りかけていた。それに対する唯一の正しい応答は、洗う前に二分だけ耳を傾けることである。
この技法は、焼いたタンパク質ならどれにも移植できる。鶏もも、ステーキ、豚ロース、鴨胸、身のしっかりした魚の切り身、フォンができるほど強く焼いた厚切りのきのこや豆腐でさえ——手順は変わらない。液を入れ、こそげ、煮詰め、火を止めてバター。日本の台所にも同じ論理は現れる。焼肉や鉄板焼きに使った熱い鉄板や鋳鉄鍋を、酒やみりんでひと回し仕上げる動作だ。アルコールは飛び、みりんの糖分は残ったかすに当たってカラメル化し、できた照りを肉に戻しかける。語彙が違い、味つけが違うだけで、化学はまったく同じである。フォンがついたフライパンは、コンロの上の言語がフランス語であろうと日本語であろうと、デグレーズされるのを待っている。
この技法が二分の時間に値する理由は、休ませる工程が十分の時間に値する理由と同じである——肉を休ませる科学で扱ったように、どちらも火を止めた後に起きる補正であり、技術的には「火が通った」食べ物と、実際に「仕上がった」食べ物の差を作る作業である。パンソースもまた、同じ範疇に属する。装飾ではなく、レストランの演出でもなく、料理の最後の一文である。これがないと、肉は下書きのまま読者に届く。
