薄切りと厚切りの味はなぜ違うのか
薄切りはほとんどが表面である。厚切りはほとんどが内部である。舌はこの二つを違う食べ物として読んでいる。理由が腹に落ちるほど、厚さを軽い決定としては扱えなくなる。
薄切りはほとんどが表面である。厚切りはほとんどが内部である。舌はこの二つを違う食べ物として読んでいて、その理由が腹に落ちるほど、厚さを気軽な決定としては扱えなくなる。同じ一切れのまぐろを三ミリと九ミリで切れば、二つの違う食材として口に入る。同じきゅうりを透き通るリボンに削ぐか、親指の太さの棒に割るかで、口の中では二つの違う野菜になる。これに気づいた料理人は、厚さを包丁の扱いのこまかい話としてではなく、包丁がまな板に触れる前に下す味の決断として考え始める。私の経験では、その捉え直しは、家庭料理人がレシピの読み方に施せる、もっとも長持ちする更新のひとつである。
その差の背後にある幾何は初歩的だが、明示しておく価値がある。すべての切り片には、包丁が露出させた二面と縁から成る表面と、その面に囲まれた中身の体積がある。切り片の厚さを半分にすれば、表面はほぼそのまま残り、体積は半分になる。表面と体積の比はおよそ二倍になる。実務的に言えば、三ミリの魚の切り身は、同じ魚の九ミリ切片に対して、単位質量あたり約三倍の表面積を持つ。三倍の表面とは、三倍だけ空気と接し、三倍だけ醤油と接し、調味が内部に移動するための表面積も三倍、そして噛んだ最初の瞬間に舌が出会う化学の領域も三倍ということだ。これらは比喩ではない。薄い板と厚い板が口の中でどう座るかの、文字通りの帰結である。
舌は表面を先に読む。切り片の外側は、調味料、マリネ、酸化、切り方からくるテクスチャー、それらすべてが宿る場所だ。内部は、食材本来の水分、脂、構造的な性格が比較的そのままで座っている場所である。だから薄切りは「自分に施されたもの」の側に寄った味になる――より明るく、より均一に調味され、ドレッシングや醤油や焼き目の香りをはっきり運ぶ。厚切りは「食材そのもの」の側に寄った味になる――噛むにつれてゆっくり内部の水分が放たれ、舌の上の滞在時間が長くなり、脂や肉汁が口の中に深く拡散してから噛み終わる。だから厚切りの豚バラをゆっくり噛めば豚らしく、同じバラの紙のように薄い一枚は、絡めた釉(つや)の方の味がする。どちらも間違いではない。表面対内部のバランスのどちら側に料理を着地させたいか、その決定の違いである。
刺身の厚さは、この原理が習慣ではなく意図的に適用されている、もっとも澄んだ実例である。腕のいい板前は脂の乗ったまぐろをおよそ七~八ミリで引く。身の中の脂が舌に温められて一口の中で溶け出し、魚のキューブが口の中で柔らかくなるにつれて霜降りがゆっくり解けるだけの厚さである。同じ板前が、鯛や平目のような繊細な白身を三~四ミリで引く。摘み上げるあいだに醤油と山葵のごく薄い気配が切り身に染みるだけ薄く、しかも切り身がご飯の上に立つのではなく掛かるだけ薄く。厚さは、それぞれの場合で違う仕事をしている。咲かせたい脂には厚く。調味を運ばせたいきれいな白身には薄く。これは美的な好みではない。包丁を抜く前に板前が、表面と内部に一口の中でどんな役割を担わせるかを決めた結果なのだ。
同じ原理は調味へとそのまま続く。塩漬けと熟成は表面から内部への拡散過程である――塩は表面から入り、内部へと進む速さは、厚さと時間でおおよそ決まる。きゅうりの薄切りで作る酢の物なら、塩を回すのに十五~三十分で十分である。塩の移動距離が短いからだ。厚い豚肩肉なら、十八~二十四時間のウェットブラインが要る。同じ化学が、ミリではなくセンチの筋肉を移動することになるからである。ハロルド・マギーは『On Food and Cooking』(本のページ)で、筋肉中の拡散時間はおよそ厚さの二乗で増えると指摘している――厚さを倍にすると塩漬け時間が二倍以上必要になる理由をうまく説明する経験則である。初心者がここで踏み外すのは、レシピを額面通り受け取ることだ。「三十分塩する」と書くレシピは、書き手が扱った厚さを前提にしている。同じレシピを厚い切り身に当てれば内部の塩が足りず、薄い切り身に当てれば表面が塩辛くなる。意図しようとしまいと、厚さはレシピを書き換える。
経験を積んだ料理人を見分けるサインは、ほかの何より先に、望む一口の感覚に合わせて厚さを選ぶことである。カルパッチョとステーキタルタルは、同じ動物を厚さの両極で扱った料理であり、まさにその理由で、まったく違う料理として読まれる。半透明に近いカルパッチョはほぼ全面が表面で、料理を運ぶオリーブオイル、レモン、塩で纏われる。小さなキューブのタルタルはほぼ全面が内部で、立方体の中心は冷たいまま保たれ、肉自体の香りが先導する。どちらも間違いではない。同じ食材のどの面を提示するかという決定だ。タルタルの厚さで切ったカルパッチョは、ドレッシングが肉に逃げて泥のような印象になる。カルパッチョの薄さで切ったタルタルは、皿に届く前に酸化して、くたびれた味で読まれる。厚さは、それぞれの料理を「その料理」たらしめる決定なのだ。
この点には複数の見方がある。フランスの伝統は厚みに寄る――一インチと四分の一のステーキ・フリット、ぶ厚いパテのスライス、ボリュームのあるサーモンのパヴェ。これは部分的に、西洋のカトラリーと食事のリズムが、フォークの上で構造を保てる一口を好むからだ。東アジアの伝統は薄さに寄る――刺身、しゃぶしゃぶの肉、付け合わせの紙のように削いだ大根。これは部分的に、箸が、立つのではなく掛かる一口を好むからであり、また調味がこれらの伝統では、調理に練り込まれるよりも卓上で施される頻度が高いからである。どちらの伝統も内部的に整合している。両方のモードで何年も切ってきた私の見方は、厚さは包丁の癖ではなく味の決定だ、というものだ。一口がどう感じられるべきか――表面主導か内部主導か、纏うのか丸ごとか、舌の上で速いのか遅いのか――を決め、その決定に合わせて切る。幾何は頼まれた通りのものを差し出す。繊維を断つように切ると食感が変わる理由の根底にある習慣をまだ身につけていないなら、まずそちらから始めるとよい。厚さは繊維の向きの代わりではなく、その上に積み重なるからだ。そして、もし切り片が均一に薄くも厚くもならず、五枚に一枚だけ太かったり薄かったりするなら、刃そのものが何かを語っている――だから、これを一貫して実践する前に日本の包丁はなぜ違う切り方になるのかが効いてくる。エルヴェ・ティスは料理の精度に関する仕事の中で、同じ観察に繰り返し戻ってきた――幾何を制御する料理人は味を制御する。包丁は、その幾何が起こる場所である。
