日本料理は水の質から始まる──見えない前提
日本料理は、国外にはほとんど存在しない水を前提に組み立てられてきた。その一点が、国境を越えるレシピの半分を静かに壊している。
パリで小さな懐石店をやっている友人が、ある時こぼすように話してくれた。渡仏して最初の一年、自分は出汁の引き方を忘れてしまったのではないかと本気で疑っていた、と。昆布はいい。京都で使っていたのと同じ北海道の業者から空輸している。鰹節も削りたて。技術も変わっていない。それでも出汁が薄く、平らだった。原因が食材でも作り手でもないと疑い始めるのに半年、確信に至るのにさらに一ヶ月かかった。問題はパリの蛇口から出る水だった。低ミネラルのボトル水に切り替えた途端、彼が大人になってからずっと引いてきた出汁の味が戻ってきた。あの料理は、彼自身も意識したことのなかった日本の地質的特性を前提に、静かに設計されていたのである。
その特性とは水の硬度のことだ。水道水に溶けているカルシウムイオンとマグネシウムイオンの濃度で、通常は炭酸カルシウム換算の百万分率(ppm)で表される。日本の水道水は、列島のほぼ全域で30〜60ppmの範囲にある。東京の水道は60ppm前後、京都は40ppmほど。国際基準では軟水である。日本の若い火山地質と、急峻で短い河川の組み合わせのおかげで、地下水が海に達するまでにミネラルを溶かし込む時間がないからだ。ヨーロッパの水道水はまったく別の物語を語る。パリは地区によって200〜300ppm、ロンドンは白亜層帯水層から汲み上げているので270ppmを優に超える。ローマの水は400ppmを超えることもある。ニューヨークは軟水だが、カリフォルニアの大部分、アメリカ中西部、南欧の大半は違う。
友人の出汁が薄かった理由は化学的に正確に説明できる。昆布は冷水か沸騰直前の湯に30分から60分浸けておくと、旨味成分──主にグルタミン酸──を放出する。軟水中では、グルタミン酸塩は海藻から自由に水へと移り、舌のT1R1–T1R3受容体が「旨味の奥行き」として感じる遊離アニオンの形で水に留まる。硬水中では、カルシウムイオンがグルタミン酸分子と結合してグルタミン酸カルシウム錯体を形成する。これは溶解度が低く、味覚にも届きにくい。旨味は化学的にはそこに存在しているのだが、会話の場から連れ出されてしまうのだ。硬水は日本の料理人が好むゆるやかな抽出にも抵抗する。パリの水道水で引いた昆布は、味よりも先にぬめりとほのかな苦味を出してしまう。
同じ問題は料理全体に連鎖する。硬水で炊いた米は浸水中に水を吸いきらず、ムラに炊き上がり、表面にカルシウムが沈着して粉っぽい食感になる。硬水で淹れた緑茶は濁って渋くなる。カテキンが茶碗に届く前にミネラルと反応して沈殿してしまうからだ。硬水で作った豆腐は固まりが速すぎ、硬すぎる。水中のカルシウムが、にがりで制御するはずだった凝固を強めてしまう。これらはどの料理書にも書かれていない。日本の台所のために書かれた日本の料理書には、水の硬度は登場しない。日本では問題になるほど変動しないからである。
ここに文化の盲点がある。どの料理にも、自分たちの環境についての前提が織り込まれており、その前提は内側にいる者には見えない。環境は、すべてを測るための背景そのものだからだ。フランスのストックは、日本基準で言えば鉱物の多い水のある地域で発達した。フォン・ブランの長く強い煮込みは、その水への適応という側面もある。イタリアのパスタの茹で湯は塩を加えることで有名だが、地元の水が硬ければ硬いほどデンプンとの挙動は変わる。技術が頑丈であるおかげで、これらのレシピは移植に耐える。一方、出汁は移植に耐えない。出汁は低温で30分という繊細な抽出であり、その狭い窓にはミネラルの干渉を許す余地がないからだ。
回避策は地味だが確実だ。家庭用逆浸透膜システムの濾過水は10〜20ppm程度で、日本の水道水よりも軟らかく、出汁から米までほぼ何にでも使える。「軟水」と表示されたボトル入りミネラルウォーターや、ミネラル含有量を明記したものは銘柄により幅がある。フランスの火山層から汲み上げたボルヴィックは60ppm前後で、日本国外で営業する真剣な日本料理店の多くが選ぶボトル水である。一方、エビアンは硬水で約300ppm、パリの水道水と同じ平坦な出汁しか出ない。ボトル裏面のミネラル成分表──通常はカルシウム、マグネシウム、重炭酸塩のリットルあたりミリグラムで記載されている──を読むのが唯一信頼できる確認方法だ。「ピュア」などのマーケティング用語は判断材料にならない。
海外で料理する人への実用的なルールは単純である。長時間強く煮込むもの──パスタ、脂や澱粉でとろみをつけたスープ、煮込み料理──は地元の水道水を使えばよい。一方、繊細な抽出や繊細な食感に依存するもの──出汁、米、緑茶、豆腐──は軟水のボトル水か濾過水に切り替える。両者を並べて味比べすれば、違いは決して微妙ではない。日本料理がどこへ行ってもついて回る、あの種の苛立ち──何かが失われている気がするのに、それが何かを名指しできないという感覚──を、これがそのまま説明する。
技術論を超えてここから見えてくるのは、いかなる料理もレシピが言うほど可搬ではないという事実だ。料理とは技術と風土の結婚であり、水は風土のもっとも見えない部分である。料理書のどこにも書かれないのは、書かれた場所でそれを意識する必要がなかったからにすぎない。日本料理を国外でうまく作るということは、ある意味、本国の料理人たち自身が立てていると気づいていなかった前提を、逆向きに解きほぐす作業なのである。
