旅先で食べたあの一皿が、いつまでも忘れられない理由
二〇〇五年、神経科学者ジョン・リスマンとアンソニー・グレイスは「海馬-VTAループ」と呼ばれる神経回路の存在を示した。新奇な体験が脳のドーパミン産生領域を刺激し、海馬に記憶を強烈に焼きつける仕組みである。
二〇〇五年、神経科学者ジョン・リスマンとアンソニー・グレイスは「海馬-VTAループ」と呼ばれる神経回路の存在を裏づける論文を発表した。新奇な体験が脳内のドーパミン産生領域を刺激し、海馬に神経化学的なシグナルを送り込み、記憶の符号化を劇的に強める仕組みである。前回の海外旅行で食べたあの一皿は、自宅で食べる料理より客観的に美味しかったわけではない。脳がそれを、まったく異なる解像度で記録しただけのことだ。
この区別は、最初に思える以上に重い意味をもつ。
海馬は、特定の時間と場所に結びついた記憶——いわゆるエピソード記憶——を司る器官として長く理解されてきたが、すべての経験を平等に扱うわけではない。UCデイヴィス校のダイナミック・メモリー・ラボを率いるチャラン・ランガナスの研究は、海馬が新奇性に鋭敏に反応することを明らかにしている。経験が未知のものであるとき、脳はそれを「保存に値する情報」と解釈する。神経細胞の発火は同期を強め、符号化はより深く刻まれる。これを旅先での食事に当てはめると、構造的に重要な意味が浮かび上がる。見知らぬ環境は、単なる背景の雑音ではない。それ自体が増幅装置なのだ。
第一の機構を補強する第二の仕組みがある。脳の情動処理を担う扁桃体は、いわば記憶の増感剤として働く。二〇〇〇年、神経科学者ジェームズ・マッゴーは Learning and Memory 誌の画期的な論文で、たとえ穏やかな情動の高まりであっても、それが扁桃体を刺激し、海馬にノルアドレナリンを放出させ、その瞬間に形成されつつある記憶の定着を強めることを示した。旅というものは、その性質上、絶えず低レベルの情動的覚醒を生み出す。方向感覚を失う心細さ、喜び、期待、未知へのささやかな不安。街路の名前も読めず、メニューも完全には理解できない街でレストランに座り、五感のすべてが「新しい世界」を処理している。扁桃体はすでに動いている。料理が運ばれてくるそのとき、それは神経化学的にすでに高揚した環境の中で記録される。
つまり、その食事が鮮やかに思い出されるのは「美味しかったから」ではない。それが、脳がすでに「保存しておくべきだ」と印をつけた経験の中に到着したからである。
文明はこの力学を、神経科学が名づけるよりはるか昔から直観していたようだ。十四世紀のモロッコの学者イブン・バットゥータは、一三二五年から一三五四年にかけて、当時の既知の世界をおよそ十二万キロにわたって旅した。彼の『リフラ(旅行記)』を読むと、料理の描写は、風景や君主や建築の描写を凌駕するほどの細密さを湛えている。マリの地で食べたバターで炊いた米飯を、彼は法制度全体を記録するときと同じ精度で書きとめている。これは奇癖ではなかった。彼の脳は、リスマンとグレイスが後年に解き明かす作用——情動と覚醒の高まったなかで符号化された新奇な感覚体験は、異例の忠実度で保存される——を、ただ実演していたにすぎない。
日本人は江戸時代(一六〇三〜一八六八)に、この力学を制度として認識していた。江戸と京を結ぶ東海道の旅は、「名物」という形式的な観念を生んだ。各地の食の特産品を、旅人は文化的な作法として求め、味わい、食べ物の土産として持ち帰ることを期待された。この制度は、旅の途中に特定の土地で食べた料理が、自宅で食べる料理とは類を異にする、という前提のうえに成り立っていた。それが類を異にしていた理由は、私たちが今ようやく知ったように、食を処理する脳そのものが、まったく異なるモードで作動していたからだ。
心理学が「文脈依存記憶」と呼ぶ現象もある。一九七五年、ダンカン・ゴッデンとアラン・バッデリーは、水中で覚えた情報は水中で最もよく想起され、陸上で覚えた情報は陸上で最もよく想起されることを実験で示した。符号化された環境は、それ自体が記憶の一部となる。日常に戻ったあと、あのときの料理に近いものを口にする——同じ香辛料、同じ歯触り——たしかに記憶は喚起される。だが文脈が欠けている。壁越しに音楽を聴くようなものだ。それと分かりはするが、何か本質的なものが失われている。
だから、あの料理を再現することはできない。レシピは寸分違わず再現できる。しかし、それを最初に受けとめたときの海馬の状態だけは、二度と再現できないのだ。
科学はここまでで一つの機構を描き出す。しかし、その機構が文明としての私たちに何をもたらしてきたか——私たちのもっとも長持ちする感覚記憶が、構造的に「ここではないどこか」の記憶であるとはどういうことか——その問いには、まだ答えていない。それを問うためには、もう一段、深いところへ降りていく必要がある。
